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大田昌秀さん

今日は沖縄慰霊の日です。新聞各社は社説などで沖縄の現状を書いています。大田昌秀さんと沖縄が書いてある昨日の東京新聞社説と本日の毎日新聞余禄を紹介します。

 

東京新聞 2017年6月22日社説

太田さんの選挙のときは何としても当選させたいと頑張りました。東京新聞が社説に書いています。

【社説】

沖縄 あす慰霊の日 大田元知事を偲んで       2017年6月22日

 沖縄県大田昌秀元知事が亡くなりました。鉄血勤皇隊として激烈な沖縄戦を体験し、戦後は一貫して平和を希求した生涯でした。沖縄はあす慰霊の日。

 人懐っこい笑顔の中に、不屈の闘志を感じさせる生涯でした。

 今月十二日、九十二歳の誕生日当日に亡くなった大田さん。琉球大学教授を経て一九九〇年から沖縄県知事を八年間、二〇〇一年から参院議員を六年間務めました。

 ジャーナリズム研究の学者として沖縄戦の実相究明に取り組み、知事時代には「絶対に二度と同じ悲劇を繰り返させてはならない」との決意から、平和行政を県政運営の柱に位置付けます。

◆「平和の使徒」として

 敵味方や国籍を問わず戦没者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」を建立し、沖縄県に集中する在日米軍基地の撤去も訴えました。

 「全ての人々に、戦争の愚かさや平和の尊さを認識させるために生涯を送った『平和の使徒』だった」。長年親交のあった比嘉幹郎元県副知事は告別式の弔辞で、大田さんの生涯を振り返りました。

 大田さんはなぜ、学者として、そして政治家として一貫して平和の大切さを訴えたのでしょうか。

 その原点は、大田さんが「鉄血勤皇隊」として、凄惨(せいさん)な沖縄戦を体験したことにあります。

 太平洋戦争末期、沖縄県は日本国内で唯一、住民を巻き込んだ大規模な地上戦の舞台と化します。当時、四十万県民の三分の一が亡くなったとされる激烈な戦闘でした。

 鉄血勤皇隊は、兵力不足を補うために沖縄県内の師範学校や中学校から駆り出された男子学徒らで編成された学徒隊です。

 旧日本軍部隊に学校ごとに配属され、通信、情報伝達などの業務のほか、戦闘も命じられました。女子学徒も看護要員として動員され、学校別に「ひめゆり学徒隊」などと呼ばれます。

◆醜さの極致の戦場で

 沖縄県の資料によると、生徒と教師の男女合わせて千九百八十七人が動員され、千十八人が亡くなりました。動員された半数以上が犠牲を強いられたのです。

 沖縄師範学校二年に在学していた大田さんも鉄血勤皇隊の一員として動員され、沖縄守備軍の情報宣伝部隊に配属されました。大本営発表や戦況を地下壕(ごう)に潜む兵士や住民に知らせる役割です。

 当初は首里が拠点でしたが、後に「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の激しい空襲や艦砲射撃による戦況の悪化とともに本島南部へと追い詰められます。そこで見たのは凄惨な戦場の光景でした。

 最後の編著となった「鉄血勤皇隊」(高文研)にこう記します。

 「いくつもの地獄を同時に一個所に集めたかのような、悲惨極まる沖縄戦」で「無数の学友たちが人生の蕾(つぼみ)のままあたら尊い命を無残に戦野で奪い去られてしまう姿を目撃した」と。

 多くの住民が戦場をさまよい、追い詰められ、命を落とす。味方であるべき日本兵が、住民を壕から追い出し、食料を奪う。

 「沖縄戦は、戦争の醜さの極致だ」。大田さんが自著の中で繰り返し引用する、米紙ニューヨーク・タイムズの従軍記者ハンソン・ボールドウィンの言葉です。

 その沖縄戦は七十二年前のあす二十三日、日本軍による組織的な戦闘の終結で終わります。大田さんも米軍の捕虜となりました。

 戦後、大学教授から県知事となった大田さんが強く訴えたのが沖縄からの米軍基地撤去です。

 背景には「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦からの教訓に加え、なぜ沖縄だけが過重な基地負担を強いられているのか、という問い掛けがあります。

 沖縄県には今もなお、在日米軍専用施設の約70%が集中しています。事故や騒音、米兵による事件や事故は後を絶ちません。基地周辺の住民にとっては、平穏な暮らしを脅かす存在です。

 七二年の本土復帰後を見ても、本土の米軍施設は60%縮小されましたが、沖縄では35%。日米安全保障条約体制による恩恵を受けながら、その負担は沖縄県民により多く押し付ける構図です。

◆進まぬ米軍基地縮小

 九五年の少女暴行事件を契機に合意された米軍普天間飛行場の返還でも、県外移設を求める県民の声は安倍政権によって封殺され、県内移設が強行されています。

 そこにあるのは、沖縄県民の苦悩をくみとろうとしない政権と、それを選挙で支える私たち有権者の姿です。大田さんはそれを「醜い日本人」と断じました。

 耳の痛い話ですが、沖縄からの異議申し立てに、私たちは誠実に答えているでしょうか。

 慰霊の日に当たり、大田さんを偲(しの)ぶとともに、その問い掛けへの答えを、私たち全員で探さねばならないと思うのです。

 

 

次は、毎日新聞 余禄です。

【余録】(毎日新聞2017年6月23日)

先日亡くなった元沖縄県知事、大田昌秀(おおたまさひで)さんは沖縄戦の組織的戦闘の終末時に学徒兵として摩文仁(まぶに)近くの海岸にいた。丘の上の司令部から移動する途中、足を負傷して動けなくなる。軍司令官が自決したころだ▲「夜が明けた。静かな南国の朝にそぐわぬ陰惨な光景が眼前にくり広げられた。水ぶくれした無数の屍(しかばね)が打ち寄せられたかと思うと返す波で奪い去られた」。「死」は身近にあり、所持する手投げ弾に何度も手をやったが思い直した▲鉄の暴風(戦火)で倒れた学友、住民を壕(ごう)から追い出す友軍、自決直前の軍司令官もその目で見ていた。だが「ありったけの地獄を集めた」という沖縄戦の渦中で「戦争、戦争……」とひとりごちるしかなかった若き大田さんだった▲後に県知事選に出馬する際や、基地問題で政府と対立する時など、いつも決断にあたって摩文仁を訪れたのは死者たちの声が聞きたかったからか。その地に沖縄戦のすべての死者の名前を記す「平和の礎(いしじ)」を作り上げた県知事だった▲国籍も出身地も問わず、また民間人か軍人かもかかわりなく、二十余万人すべての戦没者の名を等しく刻んだ「礎」である。72年の歳月はこのモニュメントから沖縄戦の死者たちの声を世界へ届けようとした大田さんをも旅立たせた▲きょうは沖縄の「慰霊の日」。摩文仁戦没者追悼式典でも沖縄戦の実相を身をもって知る人々は年々姿を消していく。死者たちの声を聞く力をさらに、さらにとぎすまさねばならぬ今日の平和である。